「天才バカボン」などのギャグ漫画で一時代を築いた漫画家の赤塚不二夫さんが2日、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。72歳だった。【時事通信社】
赤塚不二夫氏を偲んで、心から哀悼の意を表したい。
これだけ、日本の漫画に偉大な功績を残してきた人だから、多くの人に影響を与えてきたと思う。それぞれが、思い出を語ることで、故人を偲び、追悼できればと思う。
私が、初めて直接、赤塚氏を見ることができたのは、私が中学3年の頃、1960年代後期のことだ。月刊漫画雑誌「COM」が創刊され、第二次漫画同人誌ブームが訪れた。第一次漫画同人誌ブーム(?)は、石の森章太郎らの「墨汁一滴」の頃ね。当時、新宿東口、伊勢丹のちょっと向こうに「コボタン」という漫画喫茶があった。
漫画喫茶と言っても、現在のような漫画喫茶ではなく、漫画の原画を展示している喫茶店で、「COM」に掲載された漫画の原画展が定期的に行われていた。だから、店内には漫画ファンというだけでなく、将来、漫画家を志したいと考える、漫画少年少女たちが集っていた。
で、新宿西口といえば、まだ「新宿西口通路」ではなく、「新宿西口広場」と呼ばれていた頃で、70年安保を前にして、週末の夜などは、フォークソング集会が開かれたりしていた。その西口からちょっと行ったところ、今では新宿副都心と呼ばれる辺りに「スタジオ・ゼロ」があった。
「スタジオ・ゼロ」は、当時、藤子不二雄のお二人、つのだじろう、赤塚不二夫が共同でビルの1フロアを借り、そこを仕事部屋としていた。
「コボタン」で漫画の原画を見て、コーフンした私と仲間数人は、自分たちの作った漫画同人誌(肉筆^^;)を持って、アポなしで「スタジオ・ゼロ」に突入した。
「仕事のジャマをしない」という条件で、スタジオに入ることができたのだが、仕事のジャマにならないはずがない。赤塚氏は、私たちが感嘆の声を上げる中、とても、恥ずかしそうに仕事をされていた。これが私の「赤塚不二夫接近遭遇体験^^;」だ。
そんな私たちを見かねてか、つのだじろう氏が私たちの相手をしてくれた。私たちの作った同人誌を丹念に見ていただき、氏の漫画論を中学生の私たちにとくとくと語ってくれた。
その10年後、私は、講談社新人漫画賞に佳作入選し、「週刊少年マガジン」で連載することになったのだが、そのときの担当編集者が、赤塚氏の作品に登場する「足の臭い、I 記者」だった。その後、講談社主催の授賞パーティーなどで、遠くから赤塚氏の姿を拝見することはあったが、当然のことながら、新人漫画家の私が、ギャグ漫画の神様的存在の赤塚氏に畏れ多くて声などかけられるわけではなく、話す機会は一度もなかった。
もし今、声をかけることができたら、赤塚氏は覚えているはずもないが、「あのときの、世間知らずで、遠慮しらずの中学生は私でした」と言いたい^^;
合掌…。
赤塚不二夫120% ―死んでる場合じゃないのだ 赤塚不二夫/著 |
赤塚不二夫 ―これでいいのだ (人間の記録) 赤塚不二夫/著 |
アカツカNo.1 ―赤塚不二夫の爆笑狂時代 赤塚不二夫/著 |
[収録曲]
1.天才バカボン(TVサイズ)
2.おそ松くんのうた
3.おそ松くん音頭
4.おそ松くん
5.正調 おそ松節
6.おそ松くん音頭
7.花のア太郎
8.江戸っ子のスキャット
9.ア太郎音頭
10.がってん承知ノ介
11.ニャロメのROCK
12.ひみつのアッコちゃん
13.すきすきソング
14.ひみつのアッコちゃん
15.DON’T YOU…?
16.ひみつのアッコちゃん音頭
17.すきすきソング
18.ひみつのアッコちゃん
19.わたしの歌を聴いてほしい
20.ニッポン晴れだよっ!アッコちゃん
21.天才バカボン
22.タリラリランのコニャニャチワ
23.バカボンブギウギ
24.パパはやっぱりすばらしい
25.タリラリラーンロックンロール
26.その日は朝から夜だった
27.元祖天才バカボンの春