ほっけの太鼓

 「きっこの日記」9月23日の記事「あとで良くなるホッケの太鼓」を読んだら、無性に「ほっけ」が食べたくなり「ほっけ口(くち)」になってしまった。

 もうかれこれ20年ほど前、札幌の小さな居酒屋で食べたほっけが忘れられない。炭火で焼いた魚を出す、その居酒屋は、10人も入ればいっぱいになってしまうような小さな店で、メインステージの焼き場を取り囲むように客席がある。主役は、この店のオヤジだ。なにせ、炭火で脂がふつふつとしている焼き魚を素手で掴んでひっくり返す。そこで食べたほっけは、大きくて、身がふっくらして、なんとも幸せな味だった。

 それ以来、ほっけファンになり、居酒屋などに行くと、ちょくちょくほっけを頼む。出てくるほっけは、それなりにおいしいのだが、どうも、あのふっくらとした幸せ感があまり感じられない。あの幸福のほっけを確認するために食べているようなものだ。

 余談だが「ほっけの太鼓」とは、「ドンドンよく鳴る法華の太鼓」で、日蓮宗派の「南無妙法蓮華経」と題目を唱えながら打ち鳴らす太鼓のこと。「ドンドン(と)よく鳴る」を「どんどん良くなる」に掛けた言葉で、魚の「ほっけ」とは、何のカンケーもない。「もっけの幸い」ともカンケーない。

 んで、「404 Blog Not Found」の9月25日の「人間は脳で食べている」という本の紹介記事を読んで、おいしさには4つのおいしさがあって「生理的なおいしさ」「食文化のおいしさ」「やみつきを誘発するおいしさ」「情報のおいしさ」があるということを知った(著者、茂木 亨氏の分類)。

 先ほどの「ほっけ」の例で言うと、あらかじめガイドブックなどで、その店が評判のおいしい店であることを知って入ったわけではないので「情報のおいしさ」は除外。私の母は、魚嫌いだったので、子供の頃、あまり魚料理は出て来なかったので「食文化のおいしさ」も除外。やはり、そのときの私のコンデションとか、脂の乗り具合とか、塩加減とか「生理的なおいしさ」だったのだと思う。「やみつきを誘発するおいしさ」は、そのときの幸福感を再び感じようとして注文するのだから、やみつきになったのだと思う。しかし、年がら年中「ほっけ」を食べたいと思うわけではなく、お酒やタバコのように依存性はない。ときおり、思い出すだけだ。

 で、「人間は脳で食べている」(伏木 亨/著)を私は、まだ読んでないのだが、4つのおいしさだけでなく、もうひとつの「おいしさ」があると、小飼弾氏が指摘する。著者もそのことは承知していて、ラストに明かしているらしいのだが、この本を読んでないので想像するしかない。

 グルメ本やら、テレビのグルメ番組などが人気だが、その人気の秘密は「伝えられない情報」だからと、常々思っていた。グルメ本などで、いかにもおいしそうな料理の写真が掲載される。でも「味」が伝わるわけじゃない。ひょっとして5つめのおいしさは、視覚や嗅覚、食感などの「感覚のおいしさ」かとも考えたが、これも「情報のおいしさ」に分類される気がする。

 テレビは、映像や音などを駆使して料理のおいしさを伝えようとするが、「味」や「匂い」、「食感」などを伝えられない。いくら彦摩呂が「味の宝石箱や~」とリポートしたところで、本当の味はわからない。料理の鉄人が作った料理をテレビで見ても、食通を自認する料理研究家が、どんなに言葉を尽くしても、視聴者は、それがどんな味なのかを「想像」するだけだ。

 つまり、元々、味や匂いなど、伝えられない情報をいかに読者や視聴者に伝えるか、それがグルメ雑誌やグルメ番組のテーマであり、伝えられない情報だからこそ、その欠損した部分を視聴者が百人百様の想像力で補うことで「おいしく」なるのだ。もしも、視聴者がその場にいて、その料理を食することができたとしたら、高名な料理研究家が「おいしゅうございます」と言っても、食べてみれば、「ふむ、こういう味か」と、そこで納得(完結)してしまう。

 漫画や小説などの原作をドラマ化や映画化したときに、必ず、不満を感じる人が出る。それは、百人それぞれが想像力によって作品をイメージしているからだと思う。こう考えると、必ずしも情報量が多いことが良いことだとも言えない。

 「想像のおいしさ」は、脳が作り出した最高のおいしさなのではないか。「想像上の恐ろしいもの」というのは、想像する限りの恐ろしいものと同じように……。しかし、「おいしさ」を想像するには、先に挙げた4つのおいしさを総動員しなくてはならない。

 はたして5つめの「おいしさ」とは何だろう。私の「想像」は膨らむばかりだ。

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