わかったよ。何が?

わかったよ。何が? 永遠というものさ。
それは、海に溶け合う太陽だ。

これは、私が高校時代に読んだ、アルチュール・ランボーの詩の断片的な記憶だ。誰の訳だったのか、文面も正確には覚えていない。


手元にある新潮文庫の「ランボー詩集」(堀口大學/訳)を見ると、

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。

とある。なんか違うなぁ。絶対に高校生のときに読んだランボー詩集ではない。

で、「わかる」ということに関して、アル中の乱暴な解釈をしてみたい。一般的には「分かる」と書く。もちろん「判る」や「解る」もあるが、常用外だ。

「分かる」ためには「分ける」行為が伴うと思う。インターネットは「智の共有」という理念がある。お金は分け与えると、減ってしまうが、知識や知恵は分け与えても、その人の知識や知恵が減ることはない。

自分の知識なり、感情なりを分け与えたとき、それが相手に届き、相手が咀嚼し、理解し、納得したとき、はじめて「分かった」となる。知識なり、感情なりを共有したことになるのだ。

キリスト教とイスラム教の対立や、テロや戦争のニュースに接するたび、国家や宗教を超えた、共通の価値観、共通の基盤がないものかと考えてしまう。

アメリカは「テロ国家」と「正義の自国」に分けて、戦争を行う。「牛肉の全頭検査は非科学的」と言い、「自国の牛肉は科学的に安全」と分別顔で言う。自分たちの「アメリカン・スタンダード」と「そうでないもの」に分ける。何が何でも都合よく「分けて」力づくで押し付けようとしても、納得できないものは「分からない」のだ。

仏教では「分別智」と「無分別智」と言う考え方があるらしい。なんか「分別ゴミ」と「無分別ゴミ」みたいだが、私の場合「思慮分別」は「ふんべつ」、「分別ゴミ」は「ぶんべつ」と分別している。「分別智」は、自他の区別を前提として行われる、煩悩(ぼんのう)をもつ人間の思考。それに対し「無分別智」というのは、対象を客体として認識・分析する分別を超えた絶対的な智。世界の窮極の真理を把握する智慧(ちえ)だそうである。とはいえ、人間は肉体という境界を超えることはできない。他者を客体として認識することで、自我を認識する。だから、悟りを開いちゃったりすると、無我の境地になっちゃうんだろうな。

わかったよ。何が? 無我というものさ。
それは、うつ病から立ち直った竹脇無我だ。