無限を読みとく数学入門 ―世界と「私」をつなぐ数の物語 小島寛之/著 角川ソフィア文庫 |
「無限を読みとく数学入門」は、小島寛之センセの一般書デビュー作「数学迷宮」の改訂版なのだが、全面的に改訂されていて、まったくの書き下ろし新作と言ってもいいほどだ。
とくに「数学迷宮」の第1章「異界からインサイド・ルッキングアウト」という小説は、巻末の第4章に移され、「『この世界』という迷宮」というタイトルで、登場人物の名前も違う、まったく、印象が異なる小説になった。
「異界からインサイド・ルッキングアウト」のほうは、小島センセ自身があとがきで「ぼくはこの時代を書き残したいと思った。ぼくたちのジェネレーションの墓碑銘として――」と書いているように、小島センセが生まれ育った時代性がストレートに色濃く反映されたものだった。
たとえば、「墓碑銘(Epitaph)」と聞いただけで、爺なんぞは、キング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」に収録されている名曲「墓碑銘(Epitaph)」を思い浮かべてしまう。1970年代の高度成長期、小島センセの趣味を反映した、プログレッシブ・ロックバンドは、「キング・クリムゾン」をはじめとして、すべて実名で登場した。
「異界からインサイド・ルッキングアウト」の最初の一行は、「ぼくたちは古びた時を生きているんだ、とヒロは思った。」と始まる。ところが、本書に収録されている小説「『この世界』という迷宮」は、「ぼくらは、閉塞した世界で生きている、とケイは思った。」となる。
作中に登場するロックバンドも架空の名前で、小島センセが過ごした時代性や、ノスタルジックな想いを排除し、みごとに「21世紀バージョン」に生まれ変わっている。違いは、それだけでなく、章ごとに文体を変える実験的試みも見直され、全体が整理されて、とても読みやすくなっている。
爺の勝手な妄想だが……とゆーか、読んだのは、もうだいぶ昔のことなので、記憶も定かでないが、村上春樹の作品にたびたび登場する「井戸」を思い出した。「ねじまき鳥クロニクル」での井戸は、人間の意識を垂直に降りていったときの最深部といったメタファーだと思う。そこで「壁抜け」が起こり、少しズレた世界へ行ってしまう。
「『この世界』という迷宮」は、この世界のいたるところに口を開けている「無限」という深淵な「井戸」の存在をつきつけられる。その井戸を覗き込んだとき、飛んでいる矢は、静止しているし、アキレスは、今も、亀を追いかけている。井戸を覗き込んだ者は「羊をめぐる冒険」、いや「数をめぐる冒険」が始まるのかもしれない。
「数学迷宮」は、当時の小島センセの実験的試み、想いがストレートすぎるほど、欲張りすぎるほど、濃縮したかたちで詰め込まれていた。そう、小島センセの想いが強くて、「数学迷宮」は、あまりにもプログレッシブ(先進的)すぎたのだ。
無限を読みとく数学入門 ―世界と「私」をつなぐ数の物語 小島寛之/著 角川ソフィア文庫 |
※まだ未読の方は、併せてこちらもオススメ。
世界を読みとく数学入門 ―日常に隠された「数」をめぐる冒険 小島寛之/著 角川ソフィア文庫 ※参照 |
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 村上 春樹
ねじまき鳥クロニクル 「あなたは私をクミコさんだと思っている。 私をクミコさんとして連れ戻そうとしている。 でもさ、もし私がクミコさんじゃなかったとしたら そのときはどうするの? あなたはまったく違うものを一緒に連れて帰ろうと しているかもしれないの…..