■青春少年マガジン1978~1983

青春少年マガジン1978~1983
青春少年マガジン1978~1983
(KCデラックス)

小林まこと/著
講談社
980円

 週刊少年マガジンのY氏(小林まことの担当編集者)が上記の本を贈ってくれた。小林まことが講談社新人漫画賞を獲ったときの模様が描かれていて、この漫画の中に若き日のガスコン爺も、「もろが卓」という名前で、ちょびっとだけ登場している^^;

 この漫画に描かれている1978~1983年は、爺にとっても思い出深い時代だ。

 何かの折に書いたと思うが、小林まことが講談社新人漫画賞で入選した回は、少年マガジン創刊1000号記念の特別な新人賞で、賞金30万円が、いきなり、賞金100万円と副賞30万円相当のステレオセットだったのだ。30年前だから、今の100万円よりも何倍もの価値がある。この賞金に目が眩み、若き日のガスコン爺(もろが卓)も、この新人漫画賞に応募したのだ。

 結果、小林まことは100万円とステレオセットを手にし、ガスコン爺は、佳作入選で、賞金10万円と副賞のテレビゲームだった。最後まで新人賞を争ったのは、同じく佳作入選した「小野新二」だったので、爺は、どのみち佳作だった;;

 しかし、新人賞の大賞入選と、佳作入選の、この落差は大きい。副賞でもらったテレビゲーム(トミー・テレビファン)で遊び呆けているうちに、気がついたら、ファミコン通信を創刊する前のアスキー(現、ファミ通:エンターブレイン)にいた……と、ガスコン爺はホラを吹いているが、途中を省略しただけで、嘘ではない。

 1978年と言えば、「ふつうの女の子に戻りたいと」キャンディーズが解散した年だが、シャープがマイコンキットMZ-80Kを発売した年でもある。翌年の1979年には、日本電気(NEC)の、日本初のパソコンPC-8001が登場した年なのだ。世の中の喫茶店という喫茶店は、インベーダーゲームに占領され、誰もが100円玉を積み上げ、夢中で戦いを挑んでいた。

 そんな中、爺は「もろが卓」として漫画家生活をスタートしたわけだが、漫画家の生活とゆーものは、この漫画に描かれているように、身と命を削りながら、ひたすら締切に追われ続ける生活だ。慢性的な睡眠不足であり、ストレスで吐くわ、食事をすると、気が遠くなるわで、ホントにそのまま気絶して、2時間ほど気がつかなかったこともある^^;

 だから、最初は、懐かし~ってカンジで読み始めたのだが、だんだん、身につまされるエピソードが語られると、最後は、涙をこらえることができなかった。小林まことも「ボロボロ泣きながら描きました」とあるように、この漫画は、小林まことと時代を共にした友へ捧げるレクイエムだ。

 爺は、小林まことや、小野新二、大和田夏希のように、バリバリ仕事をこなせるような才能もなく、人付き合いも悪かったので、あまり交遊があったわけではない。週刊連載の「サクセス・ボーイ」を終えたあとは、月刊少年マガジンで、今は亡き、神保史郎の原作で「激突!ラジコンロック」や、鶴見史郎(すがやみつる)の原作で「デッドヒート瞬」という漫画を連載していた。月刊誌ということと、原作付きなので、月のうち、半分仕事をして、半分遊んでいた。なにで遊んでいたかというと、バイクと写真とパソコンである。

 当時、バイクは数台所有していた。ヤマハのXJ-400と、あとは、小排気量のオフロードバイクばかりだ。XJ-400は、コンチネンタルハンドル、シングルシート、バックステップに改造し、タイヤをメッツラーに履き替えた。漫画家の楠みちはる、しもさか保、服部かずみ等と、箱根、富士山に走りに行ったこともある。そのとき、小林まことは、仕事で来ることができなかった;;

 爺は、漫画家時代に一度だけ、原稿を落としたことがある。朝まで仕事をし、ネームを仕上げ、バイクを引っ張り出して、相模湖のあたりの国道20号線、大垂水峠まで走りに行って事故ってしまったのだ。大腿骨骨折で、病院に救急車で運ばれたのだが、まず、したのは、編集部へ「今月の原稿入れられませ~ん!」という連絡だった。

 漫画家が原稿を落とすと「作者、急病のため…」と書かれる。爺は「作者、事故のため…」と書いてほしかったが、願いは叶わなかった;; 翌月号の原稿は、病院のベッドの上で、ペン入れした。

 写真のほうは、アシスタントFくんが借金のカタとして無理やり持ってきた、「引伸機」があったので、仕事がないときの仕事部屋を暗室にして、自分でモノクロ写真を現像していた。アシスタントが使う机が3つ並んでいて、その上に現像液や定着液を入れたトレイを並べ、現像するのだが、自分が撮影した写真が浮かび上がってくるときの、わくわくした感動は、夢中になった。気がつけば、夕方から仕事部屋にこもり、いつの間にか朝になっている。現像には酢酸を使うのだが、その酢酸の臭いが充満する、閉め切った狭い仕事部屋で、12時間も立ちっぱなしで、気分が悪くなり、数日間寝込んでしまった><;

若き日の爺

 ※意味無く、写真に凝っていた頃、30年前の若き日の爺の写真を挿入してみる^^;自分で撮影し、フィルムを現像し、印画紙へ焼き付けた。

 もうひとつの遊びはパソコン。当時、爺が購入したパソコンは「PC-8001mkⅡ」、モニターなどを含めると、当時としては、かなり、高価なオモチャだった。フロッピーディスクドライブさえ外付けで(現在では、別の意味で本体にFDDが付いてないが…)、プログラムを読み込むのは、カセットテープから「ピーピーガーガー」と読み込んでいた。たとえば「芸夢狂人の宇宙旅行」というシューティングゲームがあったのだけれど、さて、ゲームをするかと、ロードを開始してから、読み込みを終了するまで、30分近くの時間を要したのだ。

 そこで、爺が夢中になったのは、カセットテープのソフトを購入し、それをフロッピーディスクに保存すること。フロッピーディスクからならば、起動時間は、劇的に短くなる^^; 簡単なようだけど、これが、けっこう難しいのよね。マシン語をダンプリストして、にらめっこしているうちに、漫画への興味や情熱を失ってしまった;;

 よーするに、才能の限界を感じ、つらい漫画家生活から逃げ出したわけだが、1983年と言えば、ファミコンが登場し、アスキーからは、MSXという規格の、専用モニターではなく、家庭用のテレビにも接続できる、比較的安価なパソコンが登場した年だ。

 そう、爺は、1978年に漫画家になり、1983年に漫画家生活から逃げ出し、パソコンゲームや、ファミコンゲームの世界へ、雑誌の編集の世界へ入ったわけね。その後、「アスキーコミック」という漫画雑誌の編集をすることになるなんて、皮肉なもんだ。人生、どーなるか、わかったもんじゃない。

 小林まことの言うとおり、1978~1983年というのは、少年マガジン誌上でも、激動の時代だったけど、同時にコンピュータ(パソコン)の世界でも激動の時代だったんだよね。漫画も、パソコンも、社会も、次の世代への生き残りをかけた、まるで、カンブリア紀の種の爆発のような時代だったんだ。

 もちろん、カンブリア紀に発生した種の99%は、現在の種につながっていない。多くの遺伝子は受け継がれることなく途絶えた。1980年代に発売されたパソコンも、今につながることなく姿を消した。何億年かの時間を経ての変化ではなく、わずか、十数年の間に起きたことなのら。ものすごく、エキサイティングで雑多な、なんでもアリの時代だった。

 漫画家から編集者になった爺だけれど、1997年にまたまた転機が……。いったい爺の人生は、ライク・ア・ローリング・ストーン、どこまで転がっていくのだ><;

 小林まことの「青春少年マガジン1978~1983」を読んで、爺の転石の人生の中で、ごくごく狭い、爺の視野に映った範囲ではあるけれど、爺もあの同じ時代を生きていたんだよね……という懐かしさとともに、いろいろな情景が甦ってきた。この歳になると、これから起きる事柄よりも、過去に起きた事を語ることが多くなりがちだ。ついつい回顧的になってしまふ。爺になった証拠だね;;

青春少年マガジン1978~1983
青春少年マガジン1978~1983
(KCデラックス)

小林まこと/著
講談社
980円

追記:2009年3月16日
↓すがやみつるさんから、トラックバックきたーーっ^^;


“■青春少年マガジン1978~1983” への1件の返信

  1. 読書:『青春少年マガジン 1978~1983』(小林まこと)

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