■書籍:至福の超現実数

至福の超現実数
至福の超現実数
純粋数学に魅せられた男と女の物語

ドナルド・E・クヌース/著
松浦俊輔/訳
柏書房
1500円+税

 クヌース教授が若き日に書いたという「至福の超現実数」には、「純粋数学に魅せられた男と女の物語」という副題がついている。アリスとビルは、システムに組み込まれるのが嫌で、文明から遠く離れた、インド洋に浮かぶ無人島で「自分探し」の休暇を送っていた。何事も起こらず、退屈な日々が続き、そろそろ「文明」が恋しくなった頃、ビルはヘブライ語が記された奇妙な岩を発見する。どうやら、岩には「数の創造」の物語が書き込まれているらしい。ふたりは、その解読に夢中になっていく……。

 この本を購入するきっかけとなったのは、アマゾン・アソシエイトで「ガスコン研究所」のリンクから購入された書籍としてリストにあったからだ。爺が紹介した本ではないが、この「ガスコン研究所」を閲覧した人が購入した本ということで、爺も興味を持った。

 そもそも、爺は「数学」を扱った物語を読むのが好きだ。それにドナルド・E・クヌース教授といえば、コンピュータ・アルゴリズムの基礎を築いた人で、組版システムの「Tex」の創始者でもある。

 ところが、結論から言うと、爺が理解できる範囲を超えている。ひらたく言えば、超難し~~い!!と言うことだ><; 岩には、ヘブライ語と、<:> <-:> <●:> <|:> <-●:>のような記号が刻まれている。これがどうやら、新しい数のようだ。

 集合という概念を使い、まず空集合を定義して「0」とする、そこから、正の数(右集合)、負の数(左集合)が生まれ、加法定理を始めとして、さまざまな定理を作り、数を使い計算ができるようになる。数の概念を有理数、無理数と広げ、まったくの無から新しい数の体系を作り上げていく話なのだ。

 最初に発見した岩には「初め、すべては空虚だった。J・H・W・H・コンウェイは数の創造を始めた」とある。ジョン・ホーン・コンウェイは実在の人物。クヌース教授は、コンウェイの理論をどう展開していったらいいか、その過程を含めて描くことにより、「抽象的数学入門」とか「数理論理学」とかいった大学の授業で使えるような補助教材を想定していたみたい。爺にはわからないはずだ><;

 自分が理解できない本を紹介するのも、どうかと思い、これまで記事にはしなかったんだよね。でも、内容は理解できなくても、クヌース教授の言わんとしていること、やろうとしていることは、おぼろげながら、わかる気がする。

 ここからは、おもいきり爺のレベルに合わせた、別の話題。「Yahoo!知恵袋」に以下のような質問があった。

Yahoo!知恵袋
なぜ掛け算と割り算は先にやるのですか?

 たとえば「2+3×4」のような計算式があったとき、なぜ、掛け算や割り算を先に計算するのかという質問。

 この質問に対する解答を見ていると、「(2+3)×4」と、足し算を先に行うと、計算結果がおかしくなる、というものと、掛け算や割り算は先に行うというルール、決まりだから、という回答が多いことに気付く。

 もし、あなたに小学生の子供がいて、同じような質問をされたとき、あなたはちゃんと答えることができるだろうか?

 「ん? そうしないと、計算がおかしくなっちゃうだろ。そういう決まりなんだ」と答えたとしても、爺は、その人を責める気にはなれない。なぜなら、あまりにも「当たり前」すぎて、ちゃんと考えたことがなかったからだ。そもそも、どうやって、私たちは、いつのまにか、数を理解し、計算ができるようになったのだろうか……。

 爺が、なるほどと思ったは「掛け算や割り算は、違った数量でもできるが、足し算、引き算は同じ数量でしかできない」という回答。たとえば、「距離+距離=距離」だが、「速度×時間=距離」と、掛け算の場合は、その量の持つ意味が変わるという説明。これはこれで、正しい解釈。また、ある人は「次元」という概念を導入して、「長さ×長さ=面積」、「電流量÷電流=電圧」として、足し算するには、あらかじめ、次元を統一する必要があると回答。

 そこで、爺もこの問題を考えてみた。たとえば、あなたは小学生の子供を連れて、回転寿司に行ったとする。100円の寿司1皿と、120円の寿司4皿を食べたとする。会計するときの計算式は、「100+120×4」となる。100と120の数値が意味することは、同じ値段(単位は円)という量なので、足し算することができる。結果は、220円×4皿で、880円。ちが~~う! これでは「そうすると、計算がおかしくなる」という回答と同じになってしまう^^;

 ここで、必要となるのは、グループ分け、(集合)という考え方なのだと思う。回転寿司の例で言うと、
100円+120円+120円+120円+120円=
これなら、左から順番に足していけるが、皿の模様で100円皿のグループと120円皿のグループに分ける。日常の感覚としても、無意識に行っているはず。つまり、
(100円×1皿)+(120円×4皿)=
としているわけだ。「120円×4皿」の「×4皿」は、あくまで、120円の寿司と対になっているので、他のグループと入れ替えることはできない。だから先に計算して、グループ全体の値を求めておく。

 ところで「寿司を何皿食べたか?」という問題ならば、値段は関係なく「1皿+4皿=5皿」になる。

 「りんごが3個とみかんが5個あります。あわせて何個ですか?」という問題に対して、「りんご」と「みかん」は、全然違うものなので、足し合わせることはできないと主張する人がいるかもしれない(それは爺だ^^;)。そーゆー場合は、りんごとみかんを1個ずつ「皿」の上に乗せて、
(りんご×3皿)+(みかん×5皿)
と考えればいい。「りんご」や「みかん」の持つ属性を考えず、「皿は何枚ありますか?」と問題をすり替えちゃえばいいわけね。で、さらに皿を抽象的な「個」に1対1で関連づける。これが、計算を可能としている「数概念」だ。

 はたして、今の爺の説明で小学生が納得してくれるか、どうかはわからないけれど;; 小島寛之センセの「数学でつまずくのはなぜか」の中で、数を唱えることができることと、数を理解できることは、イコールではないと言っている(有名な実験があるそうで、詳しくは本書を参考)。また、「3+4」を教えるとき、3まで数を唱え、次からは、指を折りながら、4、5…と唱えて、指を4本折ったところでストップさせる、「数え主義」の弊害を説いている。

 現在の教育現場がどうなっているか爺は知らないけれど、「算数」や「数学」の授業において、どのように公式を導くかの部分は端折り、公式にあてはめ計算するという部分、答えを求めるため、公式を使った効率的な計算ばかりが強調されるきらいがあると思う。

 もっとも、あらかじめ決められた時限数で、カリキュラムをこなすには、そんなことは言っていられないという事情があるのかもしれない。また、ラマヌジャンのように、若き日に数学の「公式集」を手に入れて、かたっぱしから独自の方法で証明したという逸話を残す天才ならともかく、生徒のほうも、限られた時間内のテストでいい点を取るには、できるだけ公式を丸暗記して、この場合は、この公式を適用する、としたほうが効率的だ。しかし、日常ではあまり使わないような記号が並んだ、意味不明の公式を丸暗記するのは、大変な労力であり、苦痛だ。「数学が苦手」ではなく「数学が嫌い」となるのは、こんなところに原因があるのかもしれない。

 その結果、前述した質問のように、もっとも根源的なところを問われると、考えることを放棄して(説明することができないから)、昔のエライ人が作った公式だから、ルールだから、そーゆー決まりだから、という、何を当たり前のことを聞いてくるんだという、苛立ちにも似た回答が多く出てくるのではないかと思う。もちろん、回答者の中には、ちゃんと答えている人もたくさんいる。

 かくいう爺は「数学落ちこぼれ」で、習ったはずの中学、高校の数学でさえ、ちゃんと説明することができない。なんとなく「数学」に対する自信がないんだよね。そこで、基礎的な、基本的な部分から始めてみようという気になったのだけれど、興味を持つ対象は気まぐれで、系統立った学習ではないため、遅々として進まない。それでも、今まで理解できなかった事柄、曖昧模糊とした事柄が「なるほど~!」と納得できたとき、または、理解できたと思えるときは、素直に喜びを感じる。これって、茂木健一郎の言う「アハ体験!」なのかなぁ^^;

 まったくの無から数の体系を作り上げていくことは、あまりにも、爺には、荷が重すぎるとゆーか、無理。だって、集合論は、普段見慣れない、ヘンテコな記号がいっぱい出てくるし、それだけでも引いちゃう感じ……。クヌース教授の「至福の超現実数」で、至福を感じられなかった、爺のぼやきレビューである。

至福の超現実数
至福の超現実数
純粋数学に魅せられた男と女の物語

ドナルド・E・クヌース/著
松浦俊輔/訳
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