講談社「少年マガジン」編集部から贈呈本が届いた。少年マガジン50年分の表紙がカラーで掲載されている。爺が30年も昔、「少年マガジン」で「サクセスボーイ」の連載を開始したときの表紙も掲載されていた。
「週刊少年マガジン」 五〇年 漫画表紙コレクション 週刊少年マガジン編集部 |
本書の98ページ。「1978年 36号『サクセスボーイ』原作/牛次郎、漫画/もろが卓」とゆーのが、それ。爺は昔から爺だったわけではない。漫画家当時は「もろが卓」と名乗っていたのら^^;
「追悼:赤塚不二夫」でも、少し、触れたけれど、若き日の爺の幸運は、赤塚不二夫の作品に「足の臭いI 記者」として登場する、I 記者に認められたこと。
ちょっと、いきさつを説明すると、講談社(少年マガジン)の新人漫画賞の賞金がいっきに「100万円」にハネ上がったときがあった。もちろん、私は、100万円を獲るために応募した。作品タイトルは「親指の旅」。ま、よーするに、ヒッチハイクの物語なのだが、古典的な「The boy meet a girl」で、少年がひとりの少女に出会う、とゆーロードムービーな50ページの作品。でも、新人漫画賞の賞金100万円を獲得したのは、のちに「1・2・の三四郎」を発表する「小林まこと」だった。
小林まことは、賞金100万円と副賞のステレオセットを手に入れ、私は、佳作入選し、賞金、10万円だか30万円だか忘れたけれど、副賞のテレビゲーム機(エポック製)を手に入れた。(まだ、ファミコンはない時代^^; ファミコンの登場は、爺の運命を変えることになるのだが、ここでは省略^^;)
で、応募作は佳作入選だったのだが、最初に述べたように、I 記者の目にかかり、小林まことよりも先に、週刊少年マガジンの連載を開始することになったのだ。
いきなりの週刊連載である。1週間に20ページは、描かねばならない。ただ、牛次郎さんの原作付きなので、なんとかなると思っていた(とゆーか、漫画家になるのを目指していたので、こんなチャンスを断るわけにもいかない)。こうして、若き日の爺は漫画家になった。
I 記者の恐ろしさを垣間見たのは、あるとき(いつも喫茶店で打ち合わせをしていた)、次の原作を手渡らせて、それを読む私、I記者「どーですか、おもしろいですか?」という問いに、思わず「う~ん」と躊躇する私、すかさず、I 記者が「ですよね」と、私の手元から原作を奪い取った。「どうすれば、おもしろくなると思いますか?」と、切り返されたときだ。結局、この回は、原作がないものとして、I 記者との打ち合わせの中でストーリーを作った。
また、あるときは、完成原稿を渡したとき、「う~ん、もろがさん、これ、違うと思うんですよね」と、すべてを根本的なところから否定、週刊連載なのに、全ページ、ボツを喰らったことがある。幸い、ホントのぎりぎりの締切より、少し先行して原稿を渡していたので、泣きながら、作品を描き直した覚えがある。もちろん、I 記者の指摘はもっともで正しかったのだが……;;
久しぶりに、自分が過去に描いた漫画を見て、よくもまあ、週刊連載などをしたなぁ……と、しんどかった日々を思い出してしまった。漫画家になるよりも、漫画家であり続けることのほうが、よっぽど難しい。いずれにしろ、少年マガジンの表紙を飾った179人の漫画家のひとりになれたことは、爺にも若い時があったという証だ^^;
「サクセスボーイ」は、とうの昔に絶版になっているので、入手は困難だ。でも、ネットで調べてみると……
(※↓は、たんなるキャプチャ画像)。
「なぬ~! 3巻セットで、なんと6000円!」爺の手元にある本も売っちゃおうかしら^^;
バカラシ記者
ガスコン研究所 ■書籍:「少年マガジン」五〇年 漫画表紙コレクション やはり名を残す編集者はみな鬼エピソードが日常茶飯事なのですな。問題なのは、ぼんくらなのに鬼エピソードだけ実践する編集者の方がその何倍も多いということですが。 …
↑漫画ネタを書いたばかりに、渡辺電機(株)さんを呼び寄せてしまったようだ^^; くわばら、くわばら^^;
ギョホギョホギョホ
へ
や
で
↑あえて、放置してみました^^; 反応したら思うツボですからね。この人のやることは、理解不能でしょ。良い子は、ぜったいに近寄ってはいけません。みなさん、渡辺電機(株)の本を見かけたら、買い占めて「焚書」にしましょう。それが、人類の未来を救うことになるのです。