■灰谷健次郎「子供たちに教わったこと」

 2006年11月23日に逝去された作家、灰谷健次郎の追悼番組、1997年に制作された、NHK人間大学「子供たちに教わったこと~灰谷健次郎」の第1回から12回までを見た。生前の灰谷健次郎の授業を、二日間に渡って、たっぷり6時間聴くことができた。

 折りしも、交通事故死した児童の写真をウェブに無断掲載し、遺族の心を踏みにじるようなコメントをつけた、小学校教師が「著作権法違反」で書類送検され、遺族らが侮辱罪や、児童ポルノ禁止法違反で告発したというニュースが流れていた。

 私は、教育というものに殊更、関心が高いわけでもなく、もちろん人格者でもないが、灰谷健次郎が師と仰ぐ、林 竹二の「生命に対する畏敬がないところに教育はない」という言葉が印象に残った。

 人間は赤ん坊のときから、外界の情報を取り入れ、学習してして成長する。乳幼児は、あらゆる情報を吸収して育つ。もっとも学習能力が高いのは、乳幼児なのだろう。もしも、そういった成長期に人間として獲得しなければならない必要な学習ができなかった場合、その学習はそこで止まってしまう。ただし、一生獲得できないのか、というとそうではなく、それを学習するためには、再び、スイッチ(情報)を入れればいい。つまり、例えば5歳までに獲得しておかなければ、ならない情報があるとして、それが適切になされないと、成人したあとにも、例えば20歳を過ぎても、もう一度、それを体験して獲得(学習)するしかない。それは成人したあとに「はしか」を体験するようなもので、やっかいなものとなる。

 「いじめ」問題を扱った番組で、小学生がいじめで自殺した人に対して「生まれ変わればいいじゃん」と発言していることに私はショックを覚えた。なにも特殊な例ではなく、かなり一般的な小学生の死生観として、フツーに「生まれ変わり」が可能という死生観があるのだと言う。

 私たちは「死」を忌み嫌う存在として隠しているが、死が身近(リアル)に存在しなくなったことで、貴重な学習の機会を奪っているのかもしれない。養老孟司の愛弟子である、布施英利の「死体を探せ」などは、リアルな死をいかに現代人が感じていないか(隠しているか)を警鐘した書だと思う。

 そういう意味で、人間はひとりでは生きられないし「かけがえのない生命に寄り添って生きる」、「人間にとって優しさとは何なのか?」という灰谷健次郎の言葉は、私の中になぜか妙にすんなりと腑に落ちるのだ。